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日々の考察。

今だからこそ論語を。【論語の活学】

はじめに

この本の主題は、かの有名な古典「論語」について、その意味を改めて読み解き、今に活かしていこうというものだ。

著者「安岡 正篤」は陽明学者・思想家であり、歴代の何人もの首相の指南役を努めた人物である。

また「平成」の元号の考案者でもあり、現在の日本に陰ながら多大な影響を与えているとされている。

そんな氏の記した本書から、今回はその中でも私が特に「なるほど」と思わされた部分をいくつか抜粋して紹介したい。

[新装版]論語の活学―人間学講話 [新装版]人間学講話

[新装版]論語の活学―人間学講話 [新装版]人間学講話

目次

  1. 行動について
  2. 悪について
  3. 脳について
  4. 死について

行動について

子貢、君子を問う。子曰く、先ずその言を行い、而して後之に従う。 《子貢が君子というものについて尋ねた。すると孔子はこう言われた、「まず言わんとすることを実行して、その後で言うことだ」》

「有言実行」という言葉も、言ったからにはちゃんと実行しましょうね、という口だけの人々に対する戒めとして生まれたのだろう。

確かに改めて考えてみると「来週募金しようかと思っているんだ」などと誰かに伝える必要など一切なく、「先週募金したんだよ」と行動してからの報告で何も問題ない。

つまり、言う・宣言する必要は何一つなく、ただ行動せよということに尽きる。

ホリエモンこと堀江貴文氏やGoogle創業者のラリー・ペイジ氏も、「アイデアに価値はない。重要なのはそれを実行したかどうかだ。」と言った旨の発言をしている。

これと似たような言葉で、Facebook創業者マーク・ザッカーバーグ氏の「Done is better than perfect.(終わらせることは完璧であることよりも良い)」も、近しい意味合いだ。

こういった成功者たちが、口を揃えて行動について言及していることは偶然ではないだろう。

それが失敗しようが、三日坊主になろうが、何かやってみたいことがあるのならまずは何も考えずに行動することがより良く生きる鍵なのかもしれない。

悪について

悪に対抗する態度としては、以下の5つがあるという。

1. 弱肉強食型

泣き寝入り型と言うてもよろしい。強い者が弱い者を犠牲にしても仕方がない、弱い者は強い者の犠牲になっても仕方がない、長いものには巻かれろというわけで、あきらめて泣き寝入りしてしまう態度。

2. 復讐型

殴られたら殴り返す、蹴られたら蹴り返す、という暴力的態度。

3. 偽善型

蹴られても蹴り返すことのできぬ人間が、己が良心の呵責やら、負け惜しみ、さらには人前を恥じてこれを繕わんとするコンプレックスから、立派な理由をつけてその意気地なさをごまかそうとする。

4. 宗教型

俗世間の一切を超越して、すべてを平等に慈愛の眼で視るという態度。 これは人間として最も尊い在り方であるが、しかし人間の中の極めて少ない勝れた人たちにして初めて到達しうる境地であって、到底我々凡人にできることではない。

5. 神武型

人間の道を重んずるが故に、悪を憎んで断乎としてこれを封ずるという態度。 人を悪むと言っても、人間をにくむのではない、その人間の行う悪をにくむのである。「武」もまたしかり。その人間を憐んで、悪から解放してやるのである。それが「武」というものです。だから武という字は、戈(ほこ)を止む、と書く。

理想的な在り方

パッと見では「宗教型」か「神武型」が目指すべきものに感じるが、多くの人は日常生活等で1〜3のパターンに当てはまる場合もまだまだ多いだろう。

基本的にはこのいずれかに当てはまることを理解しておくことで、つまらない思想や議論に惑わされることはなくなるという。

脳について

西洋の脳生理学者の研究によると、人体で一番もったいない遊休施設は脳であって、特に勉強する人は別だが、まず普通の人間は与えられておる脳力の一三パーセントくらいしか使っていない。つまり残りの八七パーセントは遊んでおるわけです。ところが脳というものは、使えば使うほど、また難しいことに取り組めば取り組むほど、ますます良くなって、遊ばせておくと、駄目になってしまう。だから頭は、使いすぎて悪くなるということは絶対にないわけで、悪くなるのは使わないからである。

本書中では上記のように述べているが、たしかに多くの人は何かと「○○は天才だ!」と崇め、自分には到底できやしないと思ってしまう傾向にある。

しかしそれは誤解であり、脳は筋肉と同じく、誰だって鍛えることができる器官なのだ。

例えば将棋のプロ棋士などは、対局終了後に最初からどのように駒を動かしたのかを全て把握している。

だが、これも全員が初めからできていたのではなく、何千何万という対局を行う中で脳が鍛えられたことによる結果である。

若干脱線するが、以前見たテレビ番組で、日本の職人さんが「60年やっていればできるようにもなります」と言っていたのが印象的だった。技術よりの話だがこちらも近しい内容だ。

より一般的・汎用的な脳の鍛え方としては、以前に紹介した「ゼロ秒思考」のトレーニングなどで行ったように、何かしらの制約の中で脳に負荷を掛けることだろう。

同様に新しいこと、普段行っていないようなことをするのも脳には非常に良く、これも無意識にはできないようなことをして脳に負荷を掛けているからである。

私は「脳」こそ人間を人間たらしめている要だと思っているので、様々な工夫をこらして鍛えていきたいと思う。

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死について

季路(きろ)、鬼神(きしん)に事(つか)えん事を問う。子曰わく、未(いま)だ人に事うること能(あた)わず、焉(いずく)んぞ能(よ)く鬼(き)に事えん。曰わく、敢(あ)えて死を問う。曰わく、未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん。 季路が鬼神に仕えることを孔子に尋ねたら、孔子は、「未だ人に使えることもできないのに、どうして鬼神に仕えることができようか」といわれたので、敢えて死というものをどうお考えですかと訊くと、「未だ生を知らぬのに、どうして死がわかろうか」、と言われた。

体験した人はこの世界に1人も存在せず、我々のすぐそばにあるのに最も遠いものそれが「死」だ。

毎日多くの人が死ぬ。それはまた自分とは関係のないところで。時には非常に身近なところで起きる。

生きていれば「死」に対して何かしらの関心を持つことは至って普通のことであろう。

しかし、孔子は上のように言い、「死」ではなく「生」にフォーカスを当てている。

これを受けて、著者も以下のように述べている。

生を本当に知ることは、死を知ることにほかならない。生と死は連続した一連の問題であるから、「生」もろくろくわからぬ者に「死」などわかるはずがない。だから人生はおろか、自分のことさえまだ本当に考えたこともない人間が、〈死とは何ぞや〉というようなことを云々しても始まらない。それは観念の遊戯にすぎない。だから「もっと自己の生そのものに徹せよ」、というのが孔子の考え方であります。

個人的にはこれを生と死だけの話ではなく、ある道程を遂げた先にあるものに対して、まだ道半ばでそれを知ろうとするのはとても愚かである、という意味合いに感じた。

やはり何はともあれ目の前のことに集中すべきだ。

最後に

今回は「論語の活学」からいくつか抜粋して紹介させていただいた。

私自身、孔子の名言集などをネットでいくつか拝見した程度で、「論語」はまだ未読のため近いうちに目を通したい。

ちなみに、孔子、釈迦、ソクラテスの三賢人と呼ばれている人物は皆紀元前5,6世紀頃の時代に生きており、なんとも不思議な偶然があるものだと思う。

一方で、それもまた必然だったというのならそのことに一体何の意味があるのか。

そういったことも、勉強を続けて、それこそ孔子のように物事の本質が見えるようになってくれば何かわかるときが来るのかもしれない。