Bok No Bibrok

日々の考察。

オカルトと科学と懐疑主義

「オカルト」という言葉を持ち出すと、「そんなものを信じてる奴は情弱!科学こそ至高!!」みたいな人が湧きがちな印象ですよね。

しかし、そもそも人類はたかだか100年前までは相対性理論の存在にすら気づけていなかった、ということを忘れている人が多いように感じます。

まさか時間が可変的なものであり、むしろ光が絶対的な存在だとは、アインシュタイン以外の科学者は考えもせず、大げさではなくほぼ全人類の常識が覆りました

また別の例で言えば、人類は1674年まで微生物の存在を知りませんでした

アントニ・ファン・レーウェンフックという人物が、手製の顕微鏡を覗き、水滴の中でたくさんの生物が動きまわる「もうひとつの世界」を発見した時は、肝を潰したといいます。

このように、私たちが知らない世界というのは未だ多く存在している可能性が高く、確信を持って断定できることは非常に少ないのです。

つまり、幽霊や宇宙人、超能力なども、まだ科学的に解明されていないだけで、例えば22世紀にはそれらを観測することが当たり前の世界になっている可能性はゼロではないのです(もちろん存在しない可能性も充分あります)。

論理的盤石さを持っているように思える「科学史」ですら、幾度となく今までの常識を覆され続けてきているのですから、簡単に結論を出し、それに全体重をかけてしまうことは非常に危険な行為と言えるでしょう。

にも関わらず、こと日常生活においては、テレビで「容疑者」として報道されてしまっただけで、大半の人々はその人物をあたかも「犯人」のように扱ってしまいがちです。

「犯罪者というレッテル」は、無実だと判明しても、その人に一生ついてまわる消えない傷となるため、そう簡単に断定してはいけないはずですよね。

こういった偏見や盲信を回避するために必要になってくるのが「懐疑主義」という考え方です。

これは何事においても「疑ってかかる」ということであり、複雑な世界を生きるためのある種の「コツ」と言えるでしょう。

これなら、例えば都市伝説などを聞いても、「そうだったのか!」と鵜呑みにするでもなく、「陰謀論者乙www」と一蹴するでもなく、あくまで中立の立場でいることができます。

したがって「懐疑主義」は、容疑者の例のように、自分の身を守るだけではなく、知らない誰かを守ることにもなりうる、重要なスタンスなのです。

多くの人がこの考え方を習慣づけてくれたら、今よりも少しは善い世界になるのかなと思ったりします。